ケインズは経済学者ではない
今日はビジネスマンを紹介する日です
多くの経済学者はこうでした
需要と供給の辻褄合わせをしていれば
それが経済学のあらゆる動向を説明しうる
と思っていました。
アダム・スミス以来の「見えざる手」という表現です。
ただ一人彼だけは、需要と供給がそもそも
辻褄の見合う概念ではないと見切りをつけました
経済的不況、雇用破綻、国際的混乱、
現実に対応する素描を誰もが避けて
いつかは過ぎ去る厄災、災害であると思っている時に
彼はすべてが人為・当為であるとして
複雑化した近代を再び理論のもとに素描しようとしました
経済学はその領域を限定するべきであって完結した学問の専門領域であるというのに抗して、
彼は経済学は市場のメカニズムを逸脱しており、
予測不可能な不確実性下であっても、投資家は野性的な精神(アニマル・スピリッツ)血気と呼ばれる要請によって投資しうるなど
心理的作用を重んじました。
ケインズさんの先生、アルフレッド・マーシャルさんは
アダム・スミスの不朽の業績を元に、時間の相にその理論を修正し、現実を写し取るのが経済学だといいました。
革命的なケインズもまたその人であったように思えます。
何びとも否定しえない経済的疾患を癒すために考えら れた現実的政策が、遂には彼をその理論へと導くにいたった
と評価される所以です
彼は経済学で経済学を見ていない人です
数学、形而上学、倫理学、論理学、美学、など広義の意味での哲学的見地から
経済学は自然科学(ナチュラル・サイエンス)ではなく
モラル・サイエンスであると再定義します。
20世紀は確かにフリードマンのマネタリズムにおって各国の経済政策は安定しましたが、
これは其の様な経済学理論という考えを度外視する見地からみれば、ケインズの踏襲 であり連続性をもつとすら言えます。
近代国家の持つ宿命とは、実はエゴを抑えてステージを高めることにあります。
国際協調を捨てて自国の利益だけを図っても、それは自国の利益と幸福にはなりません。
ある一つの特定の時代の、ある特定の地域の利害や価値観を支持したところで
それは自国の利益と幸福にはつながりません。
自国民だけ尊重して、他国民を法律上で差別して虐げても、それは自国の利益と幸福にはつながりません。
そういった相互連環的なステージに登った近代国家のことを、モラルの俎上に再び載せました。
つまり、アダム・スミスの本当の意味での回帰現象です。
この様な経済主導による自由社会主義下にあっては、その社会的経済的な正義のために組織的共同体である義務が生じます
それには、個人の選択の自由や信条・精神・表現・事業・財産への関心と追求は
最大限に保護されると同時に、個人の側にもそれらを確立するべき義務が生じます。
その結果到来する世界とは、
社会の発展に役立つ知性と実力を、僕たち一人一人が有しているか否か
が問われる世界であることは、いかなる経済的枠組みを適応しようと不滅の理論であると証言した人です。
家柄や、学歴、性別、人種、宗教などによる差別が意味をなさず、ただ、人材主義によってあらゆる国際的経済活動はステージを登っていく
そんな世の中に立っていることを教えてくれた人それがジョン・メイナード・ケインズです。
そして仙人さんが教えてようとしているのは、人材主義における時代の流儀、生き方なのです。
今日もお読みいただきありがとうございます。