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経済活動で合理性の成り立たない領域が存在する

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経営を語る人ほど経済学を語らない
 
という状況をよく見ます
 
経済活動で合理性の成り立たない領域が存在する
ことを改めて指摘した
フランク・ナイトさんです。
 
 
利潤というのは生活活動の上で
避けることのできない
不確実性を
企業家が引き受けることに対する報酬である
 
将来の見通しが不確実であるからこそ
企業家はそれを克服するための努力を重ねています
多くの問題を抱えてはいても
経済発展の正体とはこの不確実性であって
それはリスクとは全く別に理解されるべき
概念であることを
指摘しました。
 
 
僕たちは資本主義下の経済体制にあって
よくも悪くも変わり続けることによってしか維持できないダイナミックなシステムに組み込まれました
 
一方ではイノベーションを生み出すのですが
他方では金融危機をもたらし、
人々の欲望をかきたてるとともに不安にします
 
人間の行動の自由とは
一体どこに向かうのか
考えさせられる言葉が
不確実性
という一言です。
 

ある条件のもとでの人々の行動は社会的に善なる結果を 生み出すということを理論化する学説が

古典的経済学では主流でした。

つまり、人々のある種の行動が一定の結 果を生み出すと主張しました

これに対して

人々の行動がどのような結果 をもたらすかは不確実である

とする主張も出てきました。

いい結果を予測して、その為に回らされた計画であっても

誰も責任を負えない

のです。

 

この2つの主張が人間の自由な行為がどこに向かうのかを

端的に表しています。

そして、不確実性という言葉によって

この主張は調和していくのです。

 

竹森俊平さんはフランク・ナイトさんの不確実性について

詳しく説明してくれています。

 

不確実性には二つのタイプがあり、二つのタイプのうち第一のタイプは、それが起こる可能性についての「確率分布」を思い描けるものだ。ナイトはこれを「リスク」と呼ぶ。他方で第二のタイプは、それが起こる「確率分布」を思い描けないものである。ナイトはこれを「真の不確実性」もしくは「不確実性」という。

「サイコロの目」、「自動車事故」は、確率分布を想定できる事象である。そのようなタイプの不確実性が「リスク」である。不確実性が「リスク」であるためには、「確率分布」について理論的な推測が可能か、類似した現象が過去に数多く発生しており、データからの統計的推測が可能でなければならない。

「企業家」という特別なタイプの人種のもっとも本質的な行動は何かといえば、「新しいこと」への挑戦である。「新しいこと」、過去に類例がないことに企業家は挑戦する。「不確実性」と真正面から対決するのである。そして「不確実性」に対決する報酬として、企業家は「利潤」を手に入れる。

しかし、「不確実性」の領域で企業家が取る行動は、必ず成功の当てがあるものではない。そもそも必ず成功の当てがあるようなものは、「不確実性」とは言わない。したがって企業家は成功することもあれば、失敗することもある。
考えてみれば、もともとビジネスの成果を過大に見積もる楽観的な性格の者が、企業家という商売を選ぶのだ。

「真の不確実性」を前にして自分の幸運を信じ込み、あえて挑戦するという心理傾向は、「バブル」という経済現象にも見出せる。ここでも過剰な楽観主義が働いている。

ナイトは、経済行動の「合理性」を基本的には認める。人間は「合理的」な計算が成り立つような状況では、「合理的」に振る舞うと考えるのである。しかし他方で、「合理性」がもともと成り立ちえない領域、すなわち客観的な確率の計算のできない「不確実性」の領域の存在を彼は重視する。われわれの世界は「不確実性」によって包囲されており、その「合理性」の成り立たない領域における人間の行動は「合理的」でありえない。そこでは、「強気」または「弱気」の心理が人間の行動を支配する。

 

 
池田信夫さんはこう言っています
 
これから必要なのは、資本や労働などの縮んでゆく生産能力を有効に利用するための制度改革と、
限りある資源を世代間で公平に分配するための財産再建
であると言います。
 
自由は、いわば魔法をかけて人や物を動かし、
それゆえ政治的な宣伝活動プロパガンダの役に立つ一種の呪文になってしまいましたので、それは他の諸価値を覆い尽くすところまで
それらと自由が衝突を起こすことは火を見るより明らかであるにもかかわらず
拡張されてゆく傾向があります。
かようなわけで、広く多岐にわたる選挙公約プログラムが支持され、
その目標を自由それ自体の中へ位置づけることによって擁護されているのです。
事実、自由は今や、望まれる成果へと事が有利に運ぶべく、論点を巧みに回避するように、ほぼ全ての争点の両側に位置する党派の支持者から定義されるのが普通です。
 
恐らくは既に触れた自由主義の意味の逆転に起因すると思われる、
そうした議論の主な間違いは、人間というのは自分がしたいと思うことを全て実行に移したり、
欲しいと思うものを全て手に入れる権能(パワー)を手に入れないかぎり自由ではなく、
およそ悪や不遇と言われる状態から解放されうると、
あるいは解放される権利をもっていると、考えることにあります。
そうなりますと、次には、ある種のよい目的が、
有効かつ必要不可欠なあらゆる手段の正当化するようになるでしょうし、
政治的強制に付随して生じうる悪い結果を無視することにもなりましょう。
フランク・ナイト 社会哲学を語る 講義録 知性と民主的行動
 
自由は目的なのではなくて
経済自由とは
ビジョンを見つけるまでの時間
一時的に僕たちに許された
執行猶予なのではないでしょうか
 
今日もお読みいただきありがとうございます