copywriter-住職’s blog

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大人に褒められたら、その時点で大人の世界の奴隷

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「私はプラトンの頭脳、シーザーの手腕、シェイクスピアの詩、主キリストの愛の所有者」
と言ったのはエマーソンですが
ここまで高い自己評価を持てたら
毎日がもっと楽しいです
 
自分の認識、感覚、直感、判断、感情、思考に自信を持つ事
自分の価値観を持つことの大事さについて
考えて見たいです
 
世界的美術家の横尾忠則さんは
 
十代の頃に夢中になったことを大切にしろ
 
と言います
 
大人の奴隷になっていることを
どこかで自覚しているから
 
僕たちは元気がでない
のではないでしょうか
 
僕たちが前衛芸術家たちから見習うべきことは
その驚くべき価値観の独立です
 
大人に褒められたら、その時点で大人の世界の奴隷です
 
世間を強く意識する以前の僕たちは
もっともっと、伸びやかさを持っていたように記憶しています
 
世間に慣れ親しんだ大人の考え方よりも
柔軟で突き抜けていた、ある意味神聖な領域を持っていました
 
真理に適う部分は、幼い人の方がはるかに沢山持っていること
これは多くの哲学者が説いています
 
前衛芸術を生き方にまで高める人たちは
 
子供の時の自分の実践者であり
 
自分自身の老いの実践者であり
 
才能の対話者として洗練されています
 
 
芸術家は神の道具
 
と考えている
横尾忠則さんの言葉に触れてみると
 
その一言に考えさせられることは多いです
 
ピカソが画家だから、僕も画家になった
 
一見子供の言い分の様に聞こえます
 
友達がやっている事の真似が大好きだった頃の子供の感性です
 
ピカソの自由さ、いい加減さ、無手勝流、剽窃主義、詐欺師的な
そういうものに全部襲われたと語ります
 
ピカソがひたすら自己の感情に忠実に描いているというのは、
もう一点一点見ればすぐに分かるんです。
その無垢な忠実さに打たれ、僕はいいようのない解放感に包まれました。
 
と同時に、自分に問いかけたんです。
僕はデザイナーとしてクライアントに忠実だったけれども、
自己に忠実じゃないんじゃないか。やっぱり絵しかないんじゃないか、と。
 
もともと高校生のころから、僕は郵便配達員の次に画家になりたかったわけですから。
ピカソ展を見て、別にピカソのようなスタイルの絵を描こうと思ったわけではありません。
ピカソのような生き方が本当に可能ならば、僕も従いたいと思ったのです。
つまり、創造と一体化した人生です。

もともと僕は模写から出発しているから、

マルセル・デュシャンのレディーメードの活用を知らぬ間に行っていたわけです

このやり方を始めたのは子供の頃だから、ピカソらがやってたなんて当時は知らなかった。

 僕の場合は基本、切ったり貼ったりもするが、描くことが多い。

自分の中に記憶されているありとあらゆる事物のストックがあるんです。

だから、例えば過去に見た名画のある一部分を今描いている絵のここに欲しいなと思うと、それを引用しちゃうんです。

この場合の引用とは無論、剽窃ではない。

既存のイメージを本来の場所から引きはがし、新たな文脈に投げ込むことで、

オリジナルなヨコオワールドを創り上げる。

美術史上の名画、往年の名俳優や憧れの女優、少年期に夢中になった冒険譚など、

記憶の引き出しからはさまざまなものが飛び出す。

20代から自分の遺書を書いていた
なんてこともあります
生きている延長に死があって、生の側から死を見ている人がほとんどだと思う。
でも僕はむしろ、死の側に立って現実の生を見る。
死は忌まわしいものでも悪でもない。
その視点に立って、祝祭としての死を表現してきました
子供は純粋で無垢で素朴で遊びの精神に満ちていますが、
最終的にピカソは子供になろうとして実際に慣れたんじゃないですか
 
子供の時に持っていたエネルギーを失う
 
その要因の一つに
 
大人の世界に呑まれる
 
があるならば
その大人の世界を作っている言葉を離れる
 
その秩序を作り上げている言葉に対して
距離を置くことは
 
 
言葉に囚われる僕たちにとって大事なことです
 
 
言葉を離れる
から
印象深いところを抜き出して見ます
若い頃は私がいて他人がいました。

他人を意識する私がいました。老齢になると私と他人がひとつになるような気がします。

私が背負っている自我を私から下ろして身軽になりたいのです。

言葉さえも私から降りたがっているような気もします。

ぼくの中から言葉が毎日のようにひとつふたつとすべり落ちていくのです。

人間が死ぬということは肉体の中から全ての言葉がなくなる状態をいうのではないでしょうか。

生きている間にうんと使いはたして、言葉の器をからっぽにして旅立つことができれば最高ですね。

なぜなら言葉の中には人間の煩悩がビッシリ詰まっているからです。
 
子供の時のエネルギーを取り戻すのではなく
老いをエネルギッシュに生きて生きたいものです
 
今日もお読みいただきありがとうございます