copywriter-住職’s blog

copywriterをやっている住職のブログです。

ハーバードの人生が変わる東洋哲学

今日はブックレビューです

 

音声はこちらから↓


ハーバードの人生が変わる東洋哲学
ハーバード大學の白熱授業のシリーズです
講師はマイケル・ピュエット
ハーバード大學東アジア言語文明学科の中国史の教授で
2006年より古代中国の倫理と政治理論という講義が経済学入門、コンピューター科学入門についで学内3位の履修者数であるそうです。
実益を重んじる大学生の関心に、テクノロジーの現代に符合しない時代の、しかも倫理めいた教科が人気となることは、大変興味深いですね。
サンダースシアターに集まった700人を超える学生を前に、講義資料もなくスライドもない。毎回50分間ひたすら熱弁をふるって大胆な約束をするそうです。
中国哲学と真剣に向き合うなら、きっときみの人生は変わる」

ハーバードのエリートが何を考えているかということを特別視する必要は全然なくて、私たちの普段考えている問題にアクセスしている問題がここにあります。
ある学生の感想があります
「どうも人は、地位でも居場所でも、何か究極の目標へ向かって日々を積み重ねて、夢の完成まで階段をのぼっているような気になってしまうところがありますよね。
でもこの講義で学んだのは、生き方を変えれば想像もしなかった可能性に目を向けられるようになるということなんです」
現代は何かの成功や実現を自分に義務付ければ義務付けるほど、
生き方も限定的にならざるを得ない時代です。
そこに自らの多様性や人間的成長や自由に振り向けている反面、それを可能にするプロセス全体がワクワクできない自己という観念を凝り固まらせている自分がいます。
そこに「新しい習慣を身につけて、自分のあり方を変えることは、本当に可能です。世の中をどうわたっていくか、世界にどう対応するか、他人とどう接するかは変えていける。わたしが学んだのは、習慣、つまり礼のもつこの力に習熟すれば、勝手に自分を枠にはめて無理だと思っていた物事でも、成し遂げられるということです」
私たちが当たり前のように信じてきた通年に疑いを抱かせ、世界とどう向き合うか、他人とどう付き合い、どのように決断を下し、人生の浮き沈みにどう対処し、どのように他人を感化しようと心もい、人生の送り方をどう選ぶかについて、古代の哲学者の教えは明快な答えをあたえてくれるからなのでしょう。

仙人さん最後のビジネスモデル

あらゆる問題に対応できるようになった今日の学知
これは、一見あらゆる状況に対応できる万能の方法論を示してくれます。
しかしその反面、あらゆる状況に対応できる状況対応的な向き合い方しか人生を誘導しないということの裏返しでもあります。

こうだったらこうする、という最短で労することがなく、功利的な答えを手に入れた挙句
決断の意味や実感も判断に伴う自信も手に入りません。
理性的な計算には限界がある。それよりも理性的な計算の間に合わない人生の問題、価値の問題には、本能を研ぎ澄まし、感情を鍛錬し、絶え間ない自己修養に励む古代の哲学は、常に内面に向き愛続けるゆえに
外側の問題に向けて広がってしまった固定的な視座、それによって出来上がってしまった感情的閉塞を解放できる方法です。

世間から自分がどう見られているかという外にばかり目が向いているとしたら、そしてそのことでストレスがあったり、自分の心と生き生きとした自信を殺さなければならなくなったら、これは外ばかりみていることの弊害です。

経済的状況や境遇のことを最優先することが、自分の幸福を組み立てるのに重要だと思っているとしたら、もしかしたらその素材選びは
間違ったりしているかもしれません。

「主体性とは自己を主張することではない」

この言葉は、コーヴィー博士の7つの習慣にも通じることですが、
この言葉にドキッとしたら、本書は有益だと思います。
今日もお読みいただきありがとうございます。

f:id:copywriter-jyuusyoku:20171107084830j:plain

教育についての宿題3つ

f:id:copywriter-jyuusyoku:20170529202035j:plain

カルペ・デイェム

11月6日
第2話の宿題です

動画はこちらから


教育には自分のセルフトーク
つまりセルフコミュニケーションを変えない限り、
コミュニケーションレベルが変わらないというお話でした

ですから、教育者はコミュニケーションレベルが
一段高く設定された人である必要があります。
自分のコミュニケーションレベルを上げるには
コミュニケーション能力を高めるワークが必要です。

コミュニケーションには色々なタイプがあるという話sで、
それを意識したワークが今回の宿題です

自分の世界観を五感レベルで
行動レベルで、感情レベルで、論理レベルで
コミュニケーションレベルを相互的に見て引き上げます。

コミュニケーション能力を引き上げるという問題の実際は
方法的に言葉へのフォーカスから離れていきます
コミュニケーションとは

どうすれば良いんだろう、
どういう言葉でアプローチして
どういう単語を選んで
どういう言い方をしたらいいんだろう。

というノウハウではなくて
自分の世界観を変えていくことだといいます。

https://naturalsuccess.jp/XBuddha/gold/special/#FslA4T

宿題1、フィジカルに目に見える五感で見える所で、

まず自分の服装とか髪型とかボディランゲージ、姿勢

表情もそうですね。

教育者として 五感で認識出来る所でどうゆうふ

うにならなければいけないのか。

これについては、行動力を示すというところが大事だと思います。

教育を求めている人は、先生に自分を似せていきたいという願望を持っています。

これはギリシア古典で言われるミメーシスの問題が関わってくると思います。

擬似描像を提示することで、真実は覆い隠されるのか否かという芸術議論一般の起点となる、中心的なる概念です。

プラトンにとっての実相とは、真に作用を生み出す根源です。

ですから、寝椅子の例えで言えば

唯一の寝椅子のイデアという実相を現実化する神と

そのイデアに基づいて実際の作用をもたらす手に触れられる寝椅子を作る職人と

神が現実化し、職人が形に落とし込んだ寝椅子を、その五 感で表現した芸術家

の3者にわけます。

そして、五感で表現されたものは、真実の構造を知らないものとして批判的な論述を展開します。

芸術家はその対象の世界について実際には何も知らなのに、見せかけだけを真似した擬似的な描像を作るというわけです。

そして、もしそれぞれの世界について本当に知っているのなら、

その似姿のために熱意を傾けるよりは、実際にそのものの作用を顕現させることの方に、より真剣になるはずだ

と問いかけるのです。

さて、教育の実相とはなんでしょう。

という問いかけをするために、実はこの宿題の考え方は大事な意味を持っています。

よく、学習の習の文字は小鳥が親鳥を真似て羽ばたく姿だよと教わります。

真似て反復するのが学習だよと教わるわけです。

これらは日本の教育に顕著です。本質論がそもそも存在しないのです。

本来教えられるものはなんだったかというと、それは儒家五常でした。義は教えられましたが、

一方で日本で仁の意義が問われた歴史は漢文学上本当に例が少ないです。

なぜなら仁は義よりもアドバンテージが高いので、義をひっくり返すことが可能だからです。

形ある義に慣れ親しみ育まれたものにとって、

仁は反逆の可能性を持っていたからです。

さて、宿題にもどりますが

人は、どんな印象を持つ人に教育されたいかといえば

明らかに言えるのは自己管理のできている人

創造能力のある人、自己実現のできている人、

を連想させる姿であり、体現者です。

これはそれぞれスタイリッシュとクリエイティブ、そしてユニークです。

時代や地域によって違いますが、今の日本ではこれです。

そして肉体もこれらの枠組みにコンパクトに収まるものである必要があります。

つまり、肉体とはそれらの模倣の入れ物に収まればそれでいいので

体格や体型にこだわらず、先にその模倣を準備してしまえば

ファッションとしては本来の目的を達成するわけです。

また逆にいかに素晴らしい肉体を持っていても、その模倣に非統一があれば、それはファッションとしては失敗しているということも逆に証明できます。

自己の役割とその機能的統一、これが第一の宿題の答えとなりそうです。

もし、剣道や柔道などの師範となるならば、

その機能的統一は袴や柔道着になります。

そしてその一連の作法と技術を邪魔しない、あるいは機能面をヒートアップさせる必要があり、そのものが特別なシンボルである必要があります。

これらは、教育の教授内容と一体のものです。

もし、最初の宿題を適宜に表現するならば、スタイリッシュである配慮となります。

用意された型に当てはめられる肉体です。

 

次に宿題の2ですが、教育者の感情状態はどうあるべきでしょうか

これは勇気、ポジティブ、寛容、許可と許しなどが思い浮かびます。

論語には衛の霊公十五に

直なるかな子魚。邦に道ある時も矢のごとく

邦に道なき時も矢のごとし

これは逆境にあっての勇気をも指します。

右顧左眄して、人の顔色を伺うのではなく

自らの信念を持って判断し、

責任を取るということを勇と言います。

もちろん、勇には条件がつきます

 

泰伯の八にはこうあります

恭にして礼なければすなわち労す

憤にして礼なければすなわち思す(草冠

これは畏縮という意味

勇にして礼なければすなわち乱る

直にして礼なければすなわち絞す

これは、周りがキリキリになるということですね

人を導き立場にある人は、

このような精神状態を制約つきで維持する

つまり、複眼的な感情状態を維持する

それを受容できる心理的訓練を日常的に持つ

ということです。

そのためには、不安な感情、人に頼りたい気持ち、

責任を負うことを面倒に思う怠惰が

肉体的にまた感情的に起こってくる状態を予測して

その状態から離れてあるということが必要になります。

それには栄養と衛生状態を向上させる

肉体の畏縮や不活発な状態から抜け出す

責任過多な状態にしておかない

フォーカスのために仕事を減らすなどです。

 

仙人さん最後のビジネスモデル

3つ目の宿題のロジックについてですが

相手に伝わるロジックの開発が重要だろうと思います。

それには筋道の立ったものであり、しかも汎用性の高いロジック

主に科学的エビデンスを集めておくということが必要になります。

結果から割り振られたプログラムという概念を用いることも必要ですし

数学的な簡潔さも必要になります。

それには語源的解釈と、経済価値の創造など

様々な分野価値観にリリースされるようなロジックを取り入れることが重要だと思います。

私が習得しておきたいのはまず基本的なところ

生理化学と生理解剖学です。

そして、博物学と論理学ですね。

今日の科学系コピーには、こういった基礎的な知識が運用されるのが望ましいと思います。

これらの持つロジックは疑いようがないからです。

近現代の心理学や社会学の成果は、これらの業績のモデル上に成り立っている

といううがったものの言い方もできようというものです。

さて、4つ目の宿題については、

3年ゴールをコミュニケイトするですね。

これは一番影響を与えそうな家族に対してしておきたいと思います。

今日もお読みいただきありがとうございます。

 https://naturalsuccess.jp/XBuddha/gold/special/#FslA4T

教育とコミュニケーションの関わり

f:id:copywriter-jyuusyoku:20170606220608j:plain

第2話を聞いて
実践したいと思ったこと

今回のテーマは私にとってとても苦手とするところでした。
コミュニケーションを意識したことがなかったです。
なぜ相手に理解されないのだろうという疑問と悲しみ、寂しさだけが体全身に出たり入ったりして
結局は自分勝手な理屈をつけて、相手の理解力のせいにしていました。
自分がこれまで意識していなかった態度、アイコンタクト、
ボディーランゲージ、声のトーン、話す速さ、服装、シチュエーションや、段取りなど、一々に意識して改善していったら、
これまで味わってきた悲しみや寂しさからは少し楽になれるでしょうか。
そんな想像をしてみると、自分がこれまで無意識にやっていたことや、相手への発言が不適切だったことばかりが思い起こされてきて、
穴に入りたい気分になります。

音声はこちらから↓


楽しい雰囲気を演出したくても、顔が笑っていないとか
やさしそうな印象を与えていない、感じさせていない人とか
よくいらっしゃいます。
こういった顔の表情一つとっても、
相手に悲しい思いをさせたり、戸惑わせたりしてしまったのかなと
居心地の悪い雰囲気を作ってしまったことを気にしてみるだけで
コミュニケーションは自分が常に責任を負っているということに気付けますね。
僕はどうだっただろうと、あの時あの場所であの人に、
一人一人聞いて回りたい気分です。
多分、当時の私は、そういうコミュニケーションを自分からしておいて、相手に決定的な印象を与えておいていなたら、
自分から去っていった相手を責めていたのでしょうね。
こちらの真心を理解しないやつだと思ったり、
教養がないと思ったり、情のない人だと思ったり。
そんなことを思い起こせば思い起こすほど、無知とはどんなに恐ろしいものかが知られてきます。


それから、会話です。
相手の関心と違う所にボールを投げても、キャッチボールにはならないんですね。
ボールを拾うことが教養だと思っていましたが、
相手に受け取りやすいところにボールを投げるのが教養というべきかもしれませんね。
自分がついつい話してしまう言葉
使ってしまう単語
自分の立ち位置
敵対したくないとか、隠れていたいとか
そういったものが出てくる
表出してくる
それをちゃんと考えて
意味を考えて言わないと
それはプロのコミュニケーターとは言えないというか
教育者ではないんですよね

だから全て自分の言葉とか話している言葉を意識すると
コミュニケーションというのは本当にシンプルに見えるんですよ

そんなことを教えてくれる人は
これまでの人生でいませんでした。

ですから、コミュニケーションの能力が高くなるだけで
人生で人との関わりが楽しくなり、
出会った人に感謝されるような関係が築けたら
素敵なことだなと思います。

あまりに傷ついてきた経験ばかりが多いと
卑屈になりやすいし、見得も張らないとなりません。

外見とか、ファッションにばかりこだわるのも
コミュニケーションの方法の豊かさを知らないことから
生まれてくる心理と言えます。

ミスコミュニケーションをしている自分と出会ってみることのほうが
実は実践しやすいことかもしれませんね

https://naturalsuccess.jp/XBuddha/gold/special/#FslA4T

言葉やシンボル機能に共通の世界観が担保されていない時代背景も
今日のコミュニケーション事情に影響しています。

言語体験に共通の経験と記憶があるかないか
そのことをちょっと配慮するだけでも
言葉の壁の厚さはしられてきます。

人生をより深く味わうために、
自分のできるコミュニケーションを一から意識的に知りたいなと思いました。

この1年、コミュニケーションをしっかり学びましょうという
カリキュラムでは、様々なアプローチが用意されています。

動物とコミュニケーションをとるには?
という投げかけが私にとっては一番意外でした。
動物とコミュニケーションをとれたら、
人間相手でも大丈夫ですよ
と言われて、正直すぐには飲み込めません。

時間のある時に、ちょっとペットショップに行ってみて
何かまた新たな気づきがあれば
シェアしますね

今日もお読みいただきありがとうございます。

仙人さんに質問です

f:id:copywriter-jyuusyoku:20170606221334j:plain

質問



仙人さんに質問です
世界観をまず教えるということは
ストーリーやイメージ化できる世界ということに限られませんか?
例えばよく仙人さんの音声からは
擬人化したイメージが登場します
あなたが塩素入りの水を飲んだら、ラクトバチルスさんが、死なないでーおじーちゃーんっと叫んでますとか

胆嚢さんは可愛い子犬みたいに、くぅーんていって、はにかんで俯いてるんですよとか
それをちょんぎったら可哀想ですねとか
ですね
善悪や好悪、それから敵味方、アニメ仕立てのストーリー
漫画の登場人物ですね
そういったイメージから、一見退屈な概念をショートカットして
感情とともに受け入れやすいのもにされています。
しかし、それでは単純な敵味方などの構造で説明つかないもの
その世界観では限界があるものがあるのも事実です。

何より本来のあり方をそのまま示すことができなくなるところに
問題点があるように思います。
もちろん、そこから興味を得て、
本当の姿を学ぶ、明らかにしていくのは本人であるとしても
教育者の責任とは、そういったモデルを示して嘘を承知で飲み込んでいかねばならないものでしょうか。

 

音声はこちらからどうぞ

世界と聞いてワクワクするか
世界と聞いて恐ろしいと感じるか
それぞれの学習タイプに沿って
ワクワクする方が学べる相手ならばワクワクさせる
恐ろしいと思って身が引き締まる方が学べる相手ならば、
恐ろしがらせる
そういった操作に、少々抵抗を感じます。
相手に対して次の教材で、また別の情報を上書きしていくことで
意図的に刷り込んだ世界観は修正できるのかもしれませんが、

言葉以上に世界観には限界があると考えます。

言葉は論理学によって限界を広げてきた歴史があります
そして、ヨーロッパにおける教授の伝統はこちらです

基礎教養のなくなった現代だからこそ、
アニメ仕立ての、
単純な構造のアレゴリーですべてを並列して理解させる限界があります。
そのことを踏まえた上での次のステップを提示する
自らがあえてピエロになる
そういうことなのかなと考えています。

https://naturalsuccess.jp/XBuddha/gold/special/#FslA4T

化学者にして実業家にして無冠の外交官

f:id:copywriter-jyuusyoku:20171102084119j:plain

トライアル7日目
今日はビジネスマン列伝についてでした。
エンザイム、タカジアスターゼの発見者として
研究者


化学者として知られている彼ですが、
日露戦争のために日本の外積引き受けに協力してくれた
ユダヤ人銀行家のヤコブ・シフや鉄道王ハリマンなどを日本倶楽部に招待して
日米交流の実をあげた社交家であり
そして近代アメリカにおける特許ビジネスを日本に最初に導入した ビジネスマンです。
化学者という研究者であって実業家であり、そして教育者である人物は、そうそういません。
知的所有権というものを価値として、いち早く気づき、戦略的に自らの発見や研究を生かしたのみならず、
日露戦争の政情不安にあって、自ら独自のパイプをつくりあげた
学者の自尊を打ち立てた人であります。
そしてその知識を生かして日本の特許庁の初代長官代理として就任し
日本の特許行政の基礎を確立し、国際社会での知的所有権の適応条件を
いち早く整備した功績は大変大きなものです。

音声はこちらから

今日でも、ニューヨーク在住の日本人が折に触れて会合に参加する日本倶楽部、これは
現在は日本クラブだそうですが、ジャパンソサイアティー、日本協会もその設立に高峰譲吉
果たした役割が大きく、実質的な創始者といってもいい働きをしています。
ニューヨークにおける日本人と米国人との交流のための社交機関として
1905年に設立された機関で、
ニューヨークにおける邦人中、知命の米人と対等に接触交際する機会を有するものがわずか数名にすぎない状態だったところを
ハーバード・クラブやイェール・クラブなどの活動状況や規約を調べて
横浜正金銀行三井物産、森村組、大倉組などの日系企業の支援を言えて会員約80名でマンハッタン西85丁目44番地の建物を一ヶ月300ドルで借りてスタートさせたそうです。
1905年6月には
日露戦争の戦費調達のためにニューヨーク訪問中の金子堅太郎と、日銀副総裁のポジションにあった
高橋是清が講演をしているそうです。
その日本倶楽部初代会長が高峰でした。

彼のように多方面で活躍する、マルチな才能を伸ばすにはどういう教育が必要だったのでしょうか
大変気になるところです

 

https://naturalsuccess.jp/XBuddha/gold/special/#FslA4T

四肢麻痺の方、パーキンソン病の方が本のページをめくって読書できるアイテムの組み合わせ

f:id:copywriter-jyuusyoku:20171101080313j:plain

グッズレビューの日です
今日紹介したいのはプリズムメガネです
とりたてて高いものではありません

私にとっては、その使い勝手が有難いものです。
目は眼球が向いている方向しか見ることのできない機能ですよね
でも、鏡の反射を使えば、眼球の方向が向かないところまで見ることができます。
このプリズムメガネは
 視線の角度を変えることができます。
そこまでしてなぜ視線の角度を変えたいかといいますと、
自分で視線を変えられない方が本を読むことができるようになります。
例えば、四肢麻痺で手が動かないので、本が持てない方
頚椎損傷で首から下が動かせない方は
基本的に本を読むことができません。

しかし、寝たままで本を読むことが、
ある種のグッズとIPadのアプリなどを活用することで
可能になります。
 
音声はこちらから↓
<br/>
こういう関心を持っているのも、私がパーキンソン病の父の介護をしているからに他なりません。
ご存知の様にパーキンソン病は脳から末端への神経伝達が上手くいかなくなる症状で有名です。
初期症状では、握っているもの、持っているはずのものを落としてしまったり、
すくみ足といって、歩こうと思っていても、最初の一歩がなかなか出なかったり
当たり前にできていたことが、できなくなります。
考えれば考えるほど、緊張して余計にできなくなります。
私の父は、自分の手で本のページをめくることが出来なくなりました。

読書を愛好している父にとっては、どんなにか歯がゆく、悲しい思いでいるかと思うと、
いてもたってもいられず、ページをめくる機械をレンタルできないかと思って、いろいろな福祉用品をケアマネージャーと相談して物色していました。
確かに筋ジストロフィーの方や、四肢麻痺の方向けにボタン一つでページをめくる機械はあるのですが、
お値段が20マン前後であるのと、
最初の本の固定などの設定が難しいのと
本が痛むのと
結局は家族が同席していないと自由に本を読むこともできず、
 家族に気兼ねしてしまう姿はとても寂しそうでした。

口に棒状のものを加えて、IPadでページをめくるのも、首が疲れてきたり、筋肉が固縮してしまい、
 首の回転が上手くいかないパーキンソン病では現実的ではありません

諦めていたところ、最近インターネットで検索して、何か改善策がないかなと「寝たきり」というキーワードから
介護レビューのブログなどを幾つか読んでいて
発見したページに書いてありましたので、ご紹介します。

それは手が不自由な人でも本のページをめくることが出来るIPad活用法というタイトルです。
アイディアは、頚椎損傷で首から下が動かないお父さんをお持ちの方の投稿でした。
声で本のページをめくる仕組みについてです。

必要なものは、ComicGlassというアプリとピンマイクと、プリズムメガネです
まず、ComicGlassのアプリケーションをインストールして、
設定からComicGlassの音声認識をonにします。

ピンマイクを口元に固定できるようにして、発生してもらいます。
すると、クリックの代わりに音声でページをめくることができます。
アッッッでもオッッでも認識してくれます。
本はスキャナーでファイル化して取り込んでおく必要はありますが、
常時つきっきりの手間に比べたら、これくらいは大丈夫です。
ScanSnap sv600はスキャナーとしては
本を開いたままページをpdfとして取り込むことができるタイプらしく
本を痛めたくない方、切断したくない方はおすすめです。

そして最後に上を見上げるしかない寝たきりの方でも、そのままの姿勢で本が読める工夫としてプリズムメガネを使います。
これは90度下を見ることができるアイテムです。
アイディアを駆使してここまでの成果をだされた方が情報を公開してくださって
本当にありがたかったです。
その方の記事はこちらです
https://ideanews.jp/archives/4303

目的のために、できることを組み合わせて、
一ミリでも現状をよくしていこうという心が
もっと自然な形で日常に溢れていれば、迷い、困っている人にとってどんなに心強いでしょう。
そんな皆が学び合うコミュニティーが、今後とももっと増えて欲しいです。
 

https://naturalsuccess.jp/XBuddha/gold/special/#FslA4T


今日もお読みいただきありがとうございます。

陰陽の考え方

陰陽の考え方を身につけて
直観力を高める

今日はブックレビューの日です

https://www.amazon.co.jp/“陰陽の考え方-を身につけて直感力を高める-Veggy-Books-勝又靖彦/dp/4906913288/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1509403598&sr=8-1&keywords=陰陽の考え方を身につけて

macrobioticsという言葉をご存知でしょうか。
極小とと極大が引き合い
万物が創造される原理をホリスティックな想像力を働かせることで説明する
感性の理論です。
感性とは一言で言えば、動物的な判断力をつけることと言えるかもしれません。

知らないもの、意識していないものに対するあり方のことです。
現代は他人の経験を学んでいく情報はたくさんありますが、
最後にはそれらから選択し、これだと決める判断は
自分で実践するしかないのです。

音声はこちらから↓

 

現代人にかけているのが感性教育と言われます
フードコンシャスネスという考え方を提唱している品川明先生という方がいます
現代の栄養学では3大栄養素、ビタミン、ミネラルや、ファイトケミカルといったたくさんの知識を勉強しても
実際の食生活で何をどう撮ればいいかわかっていない。
そこで食の感性を磨いて、既存の栄養学を生かそうという考え方です。
実際の授業はかなり斬新な内容です
たとえば、はんぺんや豆腐など色の白いものがいくつか置いてあり、
最初は目で見てそれが何であるか、どう感じるかを書き、次に触ってみて、匂いを嗅いで
最後に食べてみて書くというものです
茶筒のなかにゴマや塩、大豆などを入れて、それを振って音で違いを感じさせるという授業もあるそうです
先生は「子供はものすごく素直で、適切な表現をするけれど、
大人は過去に経験していることで答える」と言っています。
陰陽というのは身体でわかるもので、体験していくもの
冷暖自知の世界です、冷暖は自分で知るしかない、人に話しようがない
陰陽というのはそういう替え方です。

そんな野性的感覚は生き抜く世界、ビジネスで必要なものです
知性というのは、自然と自分とを対立させて自然がどうなっているか調べるという能動的な研究
それに対して感性は受動的です。まったく違うものなんです。
知性は分析的であり、感性は総合的です。
と著者の勝又さんは語ります。f:id:copywriter-jyuusyoku:20171031083108j:plain
ビジネスでは、圧倒的な情報があります
しかし、見方によって偏ったものばかり持ってくるのが我々です
ですから、全体を見通すなんて、まずできていません。
そして、大体の場合、全体を見通す情報が完全に集まっていない段階で
決断を下さなければならなくなります。
確かに偶然の重複に勝手な想像を膨らませるのは科学的には無意味な立場です
しかしニュートン力学が宇宙を時計仕掛けと見るイメージを流行らせたり、
熱力学のエントロピー増大則が宇宙の終末論と重なったり
カオスが合理性の狂気と見えたり、
量子力学の観測がフォーリズムの亡霊を呼び起こしたり、
一見無味乾燥な物理学の原理・法則が時代の文化と共鳴し、

あるいは文化的に覚醒を与えたりという相互関係は無意味とはいえません。
科学における日常言語を通した文化と交流は、理科的には少々不正確でも
互いに刺激のきっかけとなれば有意義なことといえます。
「物事を捉える時に、要素還元方式がいいのか、フォーリズムのような総合的に物事を見るのがいいのかという対立がありますが、自然がどうなっているのかという能動的なアプローチではなく、自分がどう受け止めているのかという受動的なアプローチをすれば、要素還元方式も、フォーリズムも、結局は表裏一体だということがよくわかります
総合とは、部分を全部集めたものだと思われがちですが、いくら部分を集めたって、総合にはなりません。
じゃぜなら、全部集めるといっても、人間が全部をわかっているわけでぇあないですから。
しかしどう受け止めているかということは誰でも簡単にわかります。

現代の教育は知性教育に偏っていて、感性のほうは未発達になっているのではないか
という問題提起が、陰陽をまなぶという感性、直観力の評価といえます。

だいたい人間が失敗する時は、一つのものにとらわれています。
その方法がフィットする時はいいいのですが、失敗したら終わりです。
多重思考を持ち、新しい状況に対応する、縛られない思考
それが感性なのかもしれません。

自ら実践し、決断していくには
肉体面、感情面、精神面、すべてのバランスが必要になります

仙人さん最後のビジネスモデル

今日もお読みいただきありがとうございます。