戦場報道とは生きて帰ること
戦場の最前線を取材していて、遭遇する大きな葛藤についてお伝えします。
それは、撮影する被写体が危険にさらされているときに“助けるべき”なのか、“撮影するべき”なのかという瞬間です。
混乱する現場の中では、そこに住む方々や兵士たちが次々と亡くなっていく状況に遭遇します。
実際、自らが銃撃の恐怖と耳鳴りでその場に腰砕けとなって倒れこんでしまうことが何度もありました。
カメラマンとして撮影さえできずに逃げ出したことも数えきれません。
現場では基本的に被写体となる方々に危機が迫っている時、撮影以前に助けに入ります。
もちろん誰しも生き延びることが最優先であります。
命が第一、撮影は二の次というのが現場での基本方針です。それは本能と言ったほうがいいかもしれません。
ただ、戦場ではあまりにも状況が混乱しており、味方同士が殺し合ったり、
兵士と一般人、カメラマンの区別がつかなかったりと、誰しもが生き延びることに喰らいつき、
盲目となってしまうことも現実としてありました。
取材中に気を配るもう一つ大切な指針があります。それは取材方法として戦争に巻き込まれている被害者側の避難生活に入り込み、寝食を共にしながら取材を続けていくことです。
いかに衝突する双方の意見をフラットに報道していくか土台を組み立て、
そこに密着取材という独自性、臨場感を含ませることが私の取材スタンスです。
戦場に生きる方々の息づかい
取材で大切にしていること、それは現地の方々の生の声、息づかいを聞き込んでいくことにあります。
外国人ジャーナリストという立場で、さらに両手には大型カメラをかかえているとどうしても取材対象となる方々は構えてしまい、普段とは全く違う表情で接してきます。
取材をするには常に「リスペクト」、相手に敬意を払うことがもっとも大切なのではと日々感じています。
世界には日本とは異なる生活習慣や常識で生きている人がたくさんいます。
「日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識」といわれる通り、
どの国の常識が正しいということはまったくありません。
それ故に取材先の国にジャーナリストとして入り込んでいくからには相手の生活慣習やルールに従って、
取材を続けていくことが良き取材結果を引き寄せる一番の方法なのかも知れません。
日本では絶対に許されないことが諸外国では当たり前に許されることが数多くあり、
現場で動揺したり、悲しい結果になってしまったことが今まで多々ありました。
やはり現場に何度も足を運ぶことで世界常識を肌でとらえ、
日本を発った時点で生まれたての赤ん坊のような柔らかい五感に気持ちをリセットしてしまうことが理想なのかもしれません。
戦場ジャーナリストという存在
戦場取材の現場には、世界中から多くのジャーナリストが集まり、
取材合戦ともいえる情報収集の競い合いが繰り広げられます。
それぞれの国のジャーナリストにとって、自国の国民が必要としている情報を集め、配信することが大切な仕事です。
そしてその取材内容に全責任を負います。
戦場取材に足を運び続けていて感じたことは、
どの国のジャーナリストも現場での取材方法は基本的に似通っていましたが、
そのニュース素材が自国で放送されるときには国ごとに大きく色分けされていることがありました。
戦争を支持している立場なのか、反対の立場なのかでその国で流れるニュースは全く違ったものとなっていました。「戦争報道とはそこにある事実を伝えること」この一番大切なルールを守り、
現場で切磋琢磨するジャーナリストたちにとって国別に配信ニュースが違っていたというのは恐怖を感じざる得ない瞬間でありました。戦争を支援するのか、しないのか、
この選択が日本をはじめ世界中の国々に課される究極の選択となっていました。
戦場ジャーナリストの責務、それは現場に立ち虐げられる方々の声を、そのまま伝えること、
これに尽きると感じています。
状況が不安定な国ではそこに生きる人たちの声はなかなか伝わってきません。
ジャーナリストたちが、誰よりも先にそこに自ら飛び込み、今そこにある危機を素早く世界に伝えていくことが求められています。
現場に立つジャーナリストの経験と知識、技量が取材を完遂させる大切な要素であるといえます。