たった一人でアメリカの世論を変えた男
たった一人でアメリカの世論を変えた男
5月25日
今日はビジネス人物伝です
音声はこちらから↓
これは今から111年前に書かれた文章です
「将来の国運の大半は、我が国民が一方には今後東洋の最大問題たるべき清国に対し、
他方には今後世界の最富強国たるべき米国に対する関係によって定まらん」
そして「日本の最も恐るべきところは清国にあらず欧米の諸国にあらず。実に己を不正の地に陥れ、
清国および欧米をして正義の側に立たしむるにあるなり」
「日本の禍機」と題されたこの本は、日露戦争直後に出版されました。
日本人で初めてアメリカの一流大学の教授となった人として知られています。
1909年の時点で世に問われていたこの論考は、日本近代史の結末を予言しているかのような、恐るべき洞察と思いませんか?
下級士族の父は、明治維新によって直ちに職を失いました。
しかし、すぐに教員になる資格を得て学校の校長を務めるまでに至り、
少年時代の朝河さんは父親の赴任する学校で学んでいました。
中学校には英語での弁論を学び、すでに海外留学への強い意志を抱いていたそうです。
翻訳の仕事や原稿料で学費を工面して、苦学の末
東京専門学校に進学後、本郷教会の牧師さんの紹介でダートマス大学へ学費免除での留学を許可されます。
しかし、1893年という時代、渡航そのものが大変なことでした。
徳富蘇峰、といった明治の文豪、政治家の錚々たる顔ぶれでした。
この時代の日本人は、人材を育てることへの情熱と献身が突き抜けていました。
そして、人間関係も濃密でした。
そして22歳でようやくニューハンプシャー州のダートマス大学に留学します。
ホテルの給仕や皿洗いをして生活費を稼ぎ、東洋人と西洋人の違いというものを体に染み込ませる経験は、
日米対比のなかで日本のあり方を考察する姿勢として彼の心に深く根を下ろしました。
以後52年、彼はアメリカで孤立奮闘します。
1900年、22歳の時の日記が残っています
「私が日本を後にして、このアメリカという異国の地に来たりて、人類史上の日本の相対的地位を知った」
相対的地位の認識、つまり、自己を客観視する視座の形成に生涯をかけて挑戦しました。
当時の欧米世界では、日露戦争とはどう映っていたのでしょうか。
「キリスト教国ロシアと、野蛮な後進地域アジアの小国日本との戦い」という程度の認識が一般的でした。
そんな中で1904年、朝河さんは英文で”The Ruuo-Japanese Conflict”(日露紛争)という著書を刊行し、世論をひっくり返しました。
日本側の立場からの日露戦争を解説し、英国や米国で驚くほどの売れ行きを見せたと言います。
東アジアの歴史的経緯を冷静に分析し、ロシア帝国主義の被害者たる東アジアの覚醒と、
「覇権なきアジア」の実現を主張する論理性は、
欧米の知識人に強いインパクトを与えました。
重要なところは、日本の帝国主義を擁護したわけではなく、
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日米開戦は、避けられませんでした。
東アジアに対して帝国主義を選択した日本に対して、朝河さんは失望しましたが、
各界に影響力を持つ学者の人脈に示唆と協力を得て奔走し続け、日本という国家の理解をアメリカに問い、文化財保護を働きかけました。
そしてその後のアメリカに優れた 日本文化研究者を育て続けました。
日本近代史を総括してみて、戦後にはなんと多くの「後追いの批評」が氾濫したでしょうか
結果をみてからの、「間違っていた」という批評です。
そして、今日の日本の経済も、「後追いの批評」を続けています。
同じく恐怖に支配されているいのです。
今の時代は資本主義、資源競争という恐怖に
歴史の条理を探求することで、世界史の潮流変化を的確に認識して、
「理念」をもって世界史の転換をリードするというよりは、
強いものの模倣をすることに振り回され、恐怖に駆り立てられて主体性は言い訳の言葉に消えていくのです。
今なお日本は、欧米模倣、米国追従の国際社会への関わり方には、恐怖があります。
その恐怖がバランス・オブ・パワーこそが外交の本質であるという「諦めの現実主義」を優先させます。
それは過去に生きています。
未来のビジョンを的確に持ち、その実現のために転換期を生きるスキル、人間力、世界を納得させる理論を用いた発信力を培うことが
朝河さんが発し続けたメッセージだと思います。
時代を読む知恵、主体性を確立し、次世代を生き抜くスキルを身につける一番早い道はこちらです。
今日もお読みいただきありがとうございます。