copywriter-住職’s blog

copywriterをやっている住職のブログです。

コピーライティングはシャドウに光をあてるか

 

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コピーライティングについて、そして
先日新幹線で起きた惨事について、考えています。

 
たまらなく悲しくなります。
被害者の方の無念を考えても
加害者の方の虚無を考えても
 
噂話が好きってわけではありません。
でも関係者の人柄とか、
背後にある人間関係や、生活環境について、情報が少しずつ出てくると
ついつい知りたくなります、見てしまいます。
 
2度と起こって欲しくないと念じずにはいられません。
理由があるなら、どうにかして解決できないものかと思います。
ある事件の結末までには、どれだけ大きなものが
うごめいてきたのか、誰にも知られずにいます。
 
僕たちが知りうるのは結果だけです。
 
後に残るのは、批判だけです。
 
そして、後には恐怖だけが残ります。
 
おそらく、僕たちは一人一人、背負ったものの影に怯えて生きています。
 
そんな均質的生を想定してみることは間違いないように思います。
 
 
 
僕たちには行き場のないものが渦巻いています。
正体は本人にもわかりません。
 
しかし、語れないものでしょうか。
その心の底の、よく分からないものを突き止めて面白がる好事家の視点ではなく
 
その正体がわからないものと共に生きていく当事者の視点でです。
 
 
行き場のない、でも無視しても押さえつけてもどうしようもない何かがあります。
 
「ダメなんだ」という思いです。
 
だいたいは家族など近親者との関わり、
学校での友人関係で自尊心や自信が傷ついた経験です。
ダメ扱いされて、一歩を踏み出すことへの恐怖が
言葉に染み付いています。
行動を習慣化させています。
目を閉じても聞こえてきます。
 
すこしずつでも、
そんな泥沼ででも呼吸をする瞬間があります。
 
社会で人から認められるとか
誰かから必要とされるとか
一緒にお酒を飲む仲間内で発散されるものだったり
そんな自己肯定感であったりします。
 
コツコツとものを作って
作品として仕上がってくるとか
体を鍛えるとか、
展示会や発表会など
そういったハレの舞台だったりします。
 
しかし、そういった恐怖の出口が閉ざされていることがよくあります。
人とのつながりの中で、呼吸が「許されていない」場合です。
そして、自分に対しても呼吸を「許可をしていない」場合です。
この2つの力が、もし積極的に逃げ場を塞いでしまったら
どうなるでしょうか。
 
人間の経済活動をすら、
このような説明のつかない感情や
衝動のはけ口の一つに過ぎない
非合理的な活動である
と分析する人たちがいます。
 
ヘーゲルバタイユ、ポランニーといった人たちです。
蕩尽という言葉では特に
人間の行動の中には
その作用原理の中には、
僕たちがよく理解している、価値の生産や蓄積という
とってもよくわかる合理的な行為を喜ぶのではなくて、
何か価値に見合わないものを破壊したり、消費したりして
バランスをとったり、放出する不可解な欲求がある
ことを指摘しています。
一見目に見えて理解されている経済的合理性は、
深いところでは、その不可解な衝動がかろうじてバランスを保っている
つかの間の姿に過ぎないという見解から、
社会現象や経済現象を説明していきました。
 
僕たちがものを買うのも、
不条理の泥沼に浮き沈んで酸欠状態の心が呼吸をするためです。
 
商品に期待するのも、素敵なイメージに心をウキウキさせるのも
「ああ、これでやっと呼吸ができる」
と内心で思っているからです。
お酒やたばこで体を痛めつけるのも、心が呼吸をするためには仕方のない事です。
 
コピーライティングは、そんな僕たちの心理機能を考えています。
セールスの心理の深い洞察には
様々なアイテムがあります。
 
僕たちが一人一人背負った影と苦しみは、
外に向けて、社会に気道を繋げていくことができれば
才能としてその人を輝かせることもができます。
アイテムを使いこなしてください。
 
自ら作っている泥沼にも
他人に足を引っ張られる泥沼にも
他人から投げ込まれる泥で泥沼化することもあるでしょう。
 
それは商品でしかない場合、つかの間の呼吸です。
数リットルくらいの空気でしかありません。
 
商品によって呼吸している僕たちだからこそ、
心と社会とにふさがらない気道を確保することは
とても優先度の高いレスキューになるのではないでしょうか。
今日もお読みいただきありがとうございます