copywriter-住職’s blog

copywriterをやっている住職のブログです。

教育とは相補的なのか絶対的なのか

 

今日は仙人さんに質問をする日です。
教育者はプロフェッショナルでなければならない
という趣旨のお話が第7話でした。
効率的でコンスタントに、一貫性を持って
ロボットのように鬼のようにやるのが
プロフェッショナル

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そのためには
24時間プロフェッショナルでい続ける覚悟が必要ですよというお話です。
 

不思議なことですが、
子供でもプロかアマチュアかは感じているんですね。
マチュアだと認識されたら、聞いてもらえないですね。
どんなにいい話や、内容が充実していても
評価されません。
一方でプロフェショナルだと認識されると、コンテンツ内容は関係ないです。
どんなに感情的に恐怖であっても、
フラストレーションを感じさせる存在であっても、
教育者としての責任は果たせています。
これは大変深いテーマですね。
 
教育とは教え伝える内容ではない。
 
優れた内容を持っているから
与えられる
と僕たちは勘違いしています。
 
だから、愛情がないからとか
教育者としてまだまだだからとか
責任がまだ足りないからとか
教育するだけの知性がないからとか
教育なんて高尚なことは自分には程遠いとか
 
そう、プロフェッショナルであるか
マチュアであるかは、程度の問題なのか
それとも生き方の質の問題なのか
ここをはっきりさせる必要がありそうですね。
 
愛情とか、教育者の責任とは
心のなかで思っているだけではダメです。
どんな人に対しても、通じる
どんな人に対しても、教育者である
気分や状態に左右されないで、相手から学びが得られるということは、どういう状態なんでしょうか。
 
教育者と教育者が集まった場合、それは相補な関係なのか、絶対的な関係なのか
というのが、疑問点です。
面白い思考実験だと思いませんか?
教育者が集まったらお互いの批判を始めるのでしょうか?
足りないところを埋めあうのでしょうか?
お互いに指摘しあうのでしょうか?
それともその場にいる教育者すべてがある一人の教育者にリードされるのでしょうか? 
 
否定神学という思考があります
 
神さまとはあらゆる知識をあらかじめ知っている存在であり、それが生成される前からどのようなものであるかをご存知です。
 
一方で人間とは知識を持つというあり方がとても限定的です。
ある方向性で、単純化したり、
経験したものを形にしたり、表現することはできますが、
すべては現実のもとに、現実のものとして生成されなければ手に入れることができない
つまり、生成される前の状態を永遠に知らない
存在です。
生み出されたもの、結果しか知らない。
気づけないのです。
 
であるからこそ、私たちの存在の理解と認識は
ある一定の補いをしなければなりません。

 

所与のシステム、あるいはテクストを形式化し
 
そこに自己言及的な決定不可能性を見出し
 
そのポイントを超越論化することでシステム全体の構造を逆説的に説明する思考のことですね。
 
友人ではなく
非目的的であってはならない
そしてプライベートではなくてビジネスであり
そして、つねにリスキーであり続ける
距離を保ち続ける
 
教育者を語る時、それは
教育者とは何でないか
 そんな関係性を考察していくのが
プロフェッショナルという言葉になっていく
とおっしゃっているように思います。
 
今日もお読みいただきありがとうございます